∴数奇屋造りの派生から、畳割りが建築の基準になり、畳の規格化が始まる
∴親方と職人という階層分化が進み、親方が原料から道具類、衣食住まで貸与する職人制度が確立、畳屋.畳刺.手間取.職人.出居衆.弟子の6階級の身分制度が成立
∴ 庶民の家でも畳の敷き詰めが行なわれ畳の消費が増大 江戸市中の家屋に敷かれていた畳は、江戸間と呼ばれる柱を基準にした5尺8寸の畳です。畳の規格サイズが出来たのは16世紀も終わりの頃の京都において でありました。畳の大きさを一定にし、それにあわせて柱を立てていく「畳割り」という方法が編み出されました。その畳のサイズは京間といって6尺3寸あの 長さがあります。しかし火事が多い江戸ではしょっちゅう家屋を建てなければ間に合わないので、柱を基準にした「柱割り」の方が生産性が上がるので、江戸間 というちょっと小振りな畳が一般的になりました。
慶応3年(1867)に世界周航の途中に立ち寄ったフランスの青年貴族 L・ド・ボー ヴォワー ル が 「日本人の最大の贅沢は畳である。ワラを編んで作り、完全な長方形で三ブース(約8cm)の厚さ、触ると柔らかい。彼らは履き物でこれを汚すこと は決してせず、家の中を歩く時は必ず素足である。」(『ジャポン』織部友次郎訳、1867年)と、畳に感激していました。